後味の悪い話は聖書にもいっぱいある
(キリスト教の人いたらごめんね)
イエスキリストが説法をするために場所を借りた家には来客がいっぱい。
その家の姉妹のうちの姉は、来客の食事の世話などの応対に負われてんてこ舞いだったが、
妹は手伝いもせず、一人のんきにイエスキリストの説法に聞き入っていた。
姉が「あなたも手伝って」と妹に言ったところ、イエスは姉を叱る。
「妹は今価値ある私の説法をきいている。それをジャマしようとするおまえは何という
ひどい人間なのだ」というふうに。
はあ?と思った。
じゃあ姉は一人で忙しくてその説法を聞けなくていいのか?
妹は説法聞けば手伝いしない怠け者のままで許されるのか?
二人で来客応対ちゃっちゃと済ませれば残った時間でも
二人ともイエスの話きけるじゃないか
そんな思いやりも持たない妹が説法聞いて分別くさっても有難みも何もねえよ
なんかイエスの言い分は常識と違うことを偉そうに言いたい厨二病だと思った
20代の知人女性が「運転中にパンクして困っていたところ、通りがかった男性に助けてもらった。歳はたぶん40代で、小太りで少しハゲていて、見るからに独身という感じだった。すごく気持ち悪かった」と話していて、人生の悲しみのすべてがここに詰まっているなと思った。
例えば、小さい子どもを出して、ただひたすらけなげに酷なことをさせればいい。(装置)
雨の中、知らない街でお母さんを探すとか、いなくなったペットをひたすら探して転んで膝をすりむくとか。
悲しげで大げさな音楽をこれでもかと流す。演技が真にせまっていれば(演出)大抵の観衆は自動的に泣く。
泣くのは快感だから、大抵の観客は泣かされても文句は言わない。
みうらじゅんはそういうのを「涙のカツアゲ」と呼んだ(Always三丁目の夕日を例にあげて)。
寺山修司の言葉で妙に深く刺さっているのが「歌謡曲人間」という言葉。流行歌の断片のフレーズをつぶやいて自分を鼓舞しながら生きているような人を指し、安っぽい言葉に感動してるんじゃねーよ的な揶揄と、そんな流行のフレーズで人生を豊かにできる人への、ある種の暖かい(生暖かい?)視線が混在したようなニュアンスで語られていたと思います。ツイッター全盛の時代にこれを思うと、また味わい深いものがあります。
フミコブラー ガオーーーッ!!(コブラじゃない)